回想の館289.ひめゆりの塔資料館 ~ 沖縄県平和祈念資料館
沖縄県糸満市・2012年9月8日
ひめゆりの塔資料館
地図
沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒200人余による「ひめゆり部隊」が、看護活動を行っていた最後の場所、旧陸軍第3外科壕跡が「ひめゆりの塔」だ。
ひめゆりの塔 「塔」と名付けられているが、実物は高さ数10cmほど

旧陸軍第3外科壕跡 「ひめゆり部隊」が看護活動を行っていた最後の場所

「ひめゆりの塔の記」
地図
1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。90日におよぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でした。


第1展示室 「沖縄戦への道」

沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒200人余による「ひめゆり部隊」が、看護活動を行っていた最後の場所、旧陸軍第3外科壕跡が「ひめゆりの塔」だ。
ここに部隊が移動した1945年6月には、医薬品や食糧も底をついていた。6月18日、軍より突如解散命令が下される。この後、壕からり脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や学徒の多くが死亡し、生還者はごくわずかたった。壕は傾斜がきつく、この中で雨や泥、砲弾にさらされながら生活していたとは、平和な時代に生きる私たちの想像を絶するものがある。
生き残った学徒の多くは、さらに海岸に追い込まれ自決した。「ひめゆり部隊」の犠牲者194人のうち、「解散」後の死者が128人という数字は、軍の無責任さが多くの犠牲者を生んだことを如実に物語っている。
塔の横に「ひめゆり平和祈念資料館」があり、多くの人が死んでいった様子を克明に綴った学徒の手記などが展示されている。また、ひめゆり部隊で生き残った女性から、館内でじかにお話を聞くことができた。説得力のある貴重な証言で、落涙を抑えるのに苦慮した。
「女性も勇敢に戦った」とする論調ではなく、日本政府・軍がひめゆり学徒を「捨て石」にしたという隠しようもない事実や、戦争の悲惨さがリアルに表現されている。
ひめゆりの塔 「塔」と名付けられているが、実物は高さ数10cmほど

旧陸軍第3外科壕跡 「ひめゆり部隊」が看護活動を行っていた最後の場所

「ひめゆりの塔の記」
沖縄県平和祈念資料館

1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。90日におよぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でした。
沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。「沖縄のこころ」とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心です。
私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。 (設立理念・1975年・沖縄県)
平和祈念堂

平和の丘

資 料 館
第1展示室 「沖縄戦への道」
明治政府は、琉球王府に対し武力を背景に『琉球処分』を断行。さらに、沖縄県は皇民化政策によって急速に日本化を進めた。一方、近代化を急ぐ日本は、富国強兵策により軍備を拡張し、近隣諸国への進出を企てた。満州事変 ~ 日中戦争 ~ アジア・太平洋戦争へと拡大し、沖縄は15年戦争の最後の決戦場となった。
第2展示室 「鉄の暴風」
沖縄戦において、日米両軍は総力をあげて死闘を繰り広げた。米軍は空襲や艦砲射撃を無差別に加え、おびただしい数の砲弾を撃ち込んだ。この『鉄の暴風』はおよそ3ケ月に及び、沖縄の風景を一変させ、軍民20数万人の死者を出す凄まじさであった。
第3展示室 「地獄の戦場」
日本軍は首里城決戦を避け、南部に撤退し持久作戦をとった。その後、米軍の強力な掃討作戦により追いつめられ、軍民入り乱れた悲惨な戦場と化した。壕 (ガマ) の中では、日本兵による住民虐殺や強制による集団死があり、外では米軍による爆撃や火炎放射器による殺戮があって、まさに阿鼻叫喚の地獄絵の世界だった。
第4展示室 「証言」
沖縄戦の実相を語るとき、物的資料になるものは非常に少ない。無念の思いで死んでいった人たちを代弁できるのは、戦場で体験した住民の証言しかない。忌まわしい記憶に心を閉ざした人々の重い口から、後世に伝えようと語り継がれる証言の数々は、歴史の真実そのものである。 (沖縄県平和記念資料館のパンフ参照)
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