回想の城86.鶴ヶ城
福島県会津若松市・2015年4月19日
地図
椿坂方面 (北側) から

梅坂方面 (西側) から












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会津若松市のシンボルの鶴ヶ城は、室町時代初期の至徳元(1384)年に、葦名直盛が東黒川館として造営したのが始まりとされている。城といっても当時は、天守閣はなく「館」程度のものだった。
その後、伊達政宗をはさんで蒲生氏郷が豊臣秀吉の命で会津を治め、七層の天守閣を築いた。黒壁で、織田信長の居城・安土城のようだったとも伝えられている。江戸時代、地震で被害を受け再建した天守閣は現在と同じ五層だった。
幕末の戊辰戦争では官軍の猛攻に耐え、難攻不落の名城と称えられたが、明治7(1874) 年に政府の命令で取り壊された。現在の天守閣は昭和40年 (1965) に復元されたもので、内部は博物館になっている。 (会津若松観光ビューローのHP参照)
青空に映える白亜の天守閣 (東側の廊下橋方面から)
戊辰戦争で有名なこの城は明治7(1874)年に取り壊されたが、昭和40(1965)年に5層の天守閣に復元される。そして、平成13年に南走長屋と干飯櫓を復元、さらに、平成23年には赤瓦葺替工事を終え幕末の鶴ヶ城の姿に生まれ変わった。
椿坂方面 (北側) から

梅坂方面 (西側) から

南走長屋方面 (南側) から
南走長屋は表門から続き帯郭と本丸を隔てる重要な位置にある。走長屋とともに表門を守り、本丸に敵が侵入するのを防いだと考えられている。

千飯櫓
干飯櫓は城内にある11の二重櫓のなかで最も大きな櫓で干飯など食糧の貯蔵庫として使われていた。
干飯櫓は城内にある11の二重櫓のなかで最も大きな櫓で干飯など食糧の貯蔵庫として使われていた。

桜に包まれる鶴ヶ城

青空に映える天守と桜

茶室・麟閣
天正19(1591)年、千利休は秀吉の不興を買い切腹を命じられた。時の会津城主・蒲生氏郷は、秀吉の怒りが一族に及び、利休の茶道が絶えるのを懸念する。そして、利休の子少庵を会津にかくまい、千家の再興を秀吉に願う。少庵がこの恩義に報い建てたのが、茶室「麟閣」と伝わる。
武者走
太鼓門の奥には、太鼓門の上に兵を昇降させるための石垣(武者走)が残されている。

石垣に映える桜

濠の水面に写る桜

朱塗りの廊下橋
廊下橋は本丸から二の丸へ通じる朱塗りの橋で、加藤明成の大改修まではここが大手口だった。葦名時代には屋根のついた廊下造で「廊下橋」と呼ばれた。

ひょっこり頭を出した磐梯山 (百名山・1819m)
「荒城の月」の詩碑

「荒城の月」の詩碑
明治31 (1898) 年、28歳の土井晩翠は東京音楽学校の求めに応じて「荒城の月」を作詞する。そのとき、二高在学中に訪ねた若松城址をモチーフにし、仙台の青葉城でも稿を練ったという。この詩碑は、昭和22年に晩翠夫妻出席のもと除幕された。
明治31 (1898) 年、28歳の土井晩翠は東京音楽学校の求めに応じて「荒城の月」を作詞する。そのとき、二高在学中に訪ねた若松城址をモチーフにし、仙台の青葉城でも稿を練ったという。この詩碑は、昭和22年に晩翠夫妻出席のもと除幕された。

案内図 (観光公社のパンフから)

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