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2023/09/14

回想の館383.特攻平和会館 ~ 西郷南洲蟄居跡

鹿児島県南九州市知覧町・2004年5月

特攻平和会館
地図

 2004年5月、薩摩半島の開門岳に登ったときに知覧を訪ねた。ここは、太平洋戦争末期の沖縄決戦において、爆弾搭載の飛行機もろとも突撃する特攻隊の出撃基地があったところだ。現在は「特攻平和会館」として、特攻隊員の遺品や関係資料が展示されている。

 とりわけ、一機一艦の突撃を敢行した若き特攻隊員 
(少年たち) の遺書は涙を誘う。ほとんど「お母さんさようなら」と書き残して死んでいったという。展示室で、熟年の女性が目頭をおさえながら熱心に見入っていた。我が子の姿を重ねあわせているのかもしれない。


 会館の遠景
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 一式戦闘機「隼」  爆弾と片道の燃料を積んで敵艦に体当たりした
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 特攻隊士の像
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 特攻隊の歌碑
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 「特攻隊の母」の像  基地の近くで食堂を営んでいた鳥濱トメさんは、よく少年たちの面倒を見たことから「母」のように慕われたという。
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鹿児島県龍郷町・2016年3月23日

奄美大島 西郷南洲蟄居跡

  安政5(1858) 年、西郷隆盛は鹿児島錦江湾に僧月照と身を投じたが、蘇生する。薩摩藩は、安政の大獄で捕縛命令が出ていた西郷をかくまうため、幕府に対しては死亡したと届け出、奄美大島に蟄居を命じた。西郷は菊池源吾と名を変え奄美での暮らしが始まる。

 西郷はしだいに島の人々の信頼を集め、龍郷の有力者である龍家の娘・愛加那を島妻とする。西郷33歳、愛加那23歳。やがて菊次郎と菊子という2人の子どもをもうけた。西郷は島の子供たちに勉強を教えたり、相撲をとったりして過ごす。愛加那にとってはこの3年間が最も幸せな時期だった。

 時勢が西郷の力を求め、元治元 (1864) 年に再び呼び戻される。鹿児島に戻る途中で奄美大島に立ち寄ったときが、愛加那との最後の別れとなった。薩摩藩の島妻制度に従い、2人の子どもたちは西郷本家引き取られ、愛加那は1人残されてしまう。愛加那はただ一人淋しくこの家で暮らし、明治35 (1902) 年66歳で亡くなった。 (夢島発行「奄美夢島ガイド」参照)  


 蟄居跡
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 愛加那と暮らした家
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  「西郷どん」
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  愛加那の碑
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 解 説
西郷南洲蟄居跡


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