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2023/09/01

回想の塔270.大浦天主堂

長崎市・2018年9月20日

大浦天主堂 (世界遺産)
地図

 ローマ教皇庁は長崎に天主堂を建てるため、文久3 (1863) 年にフューレ神父を派遣。殉教した26聖人に捧げるため
天主堂は西坂に建てたかったが、居留地外は許されず現在の南山手の地となった。次いで8月下旬に来日したプティジャン神父に設計図を示し、「26聖殉教者聖堂」と命名する考えを伝えた。

 翌年1月に建設に着手。パリ外国人宣教会日本総責任者のジラール神父の指導を仰ぎながら、プティジャン神父が工事の指示をした。フューレ神父が帰国したので工事は遅れたが、長崎奉行の配慮などもあり、その年の12月に竣工。

 そして翌文久5年2月、長崎港内に停泊中の英・仏・蘭・露の艦長が臨席し献堂式が行われた。天主堂の正面には万国旗がひるがえり、各国の軍艦から祝砲が放たれた。天主堂は殉教地である西坂に向けて建てられており、建設費は現在に換算すると4億円ほどとみられている。

  禁教令が解除されると信者数が増え、教会が手狭になり増改築が進められた。創建時の天主堂を包み込むように行ない、正面を6m前に出し、左右を2m広げ、後方を3.6m伸ばした。そして面積は当初の2倍に拡張され、内外ともゴシック様式に統一された。

 昭和20 (1945) 年の原爆投下では、屋根や正面の大門扉、ステンドグラスなどの部分に甚大な被害を受ける。国の補助を受けて修復工事が実施され、昭和27 (1952) 年6月、5年の歳月を費やして工事が完了した。本年7月、この大浦天主堂をはじめとする「長崎・天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、ユネスコの世界文化遺産に登録された。 (長崎司教区「大浦天主堂物語」参照)


世界遺産の構成資産
12の構成資産



 長崎のシンボル大浦天主堂
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 プティジャン司教像 (右) と 聖ヨハネ・パウロ2世教皇像 (左)
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 信徒発見記念碑
    慶応元 (1865) 年、大浦天主堂の献堂式の1ヶ月後に歴史的な瞬間が訪れる。長崎市浦上の潜伏キリシタン15人が天主堂にやってきた。彼らは堂内で祈りをささげていたプティジャン神父に近づき、こう囁いた。「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」 「サンタ・マリアの像はどこ?」 ... つまりキリスト教信仰の告白である。

 厳しい禁教令と宣教師の不在が250年余も続いたにもかかわらず、信仰が連綿と受け継がれていることが、このとき初めて外国人に対して明らかとなった。プチジャン神父はたいへん驚き、また非常に喜び彼らをマリア像の前まで導いた。この歴史的な意味をもつ「信徒発見のマリア像」は、現在も大浦天主堂に安置されている。

  この「奇跡」ともいえる事件は、世界中のカトリック関係者に伝わるとともに、五島や外海の潜伏キリシタンにも口伝えで広まった。みんな「フランス寺の見学」を装って大浦天主堂を訪れ、礼拝したり洗礼を受けたりしたという。 (長崎司教区「大浦天主堂物語」参照)

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  ※異論あり
 しかし、宮崎賢太郎はその著 「潜伏キリシタンは何を信じていたのか (KADOKAWAで、この信徒発見の奇跡は実証的な学問の立場からはありえないとし、神父による創作であろうと喝破している。長年にわたりカクレキリシタンのフィールドワークをしてきた著者は、彼らが仏教を隠れ蓑にキリスト教の信仰を守り続けたという旧来の説に異を唱える。むしろそれは、伝統的な神仏信仰の上にキリシタンの神をもあわせて拝む民俗宗教だった。

  本書は、明治政府が禁教令を廃止するまでの潜伏期にその信仰を持ち続けた人を「潜伏キリシタン」、禁教令廃止後もキリスト教に戻らなかった人たちを「カクレキリシタン」と区別し、「隠れキリシタン」という言葉にまとわりつくイメージの払拭を試みる。

  つまり彼らは隠れていたキリスト教徒ではなく、「カクレキリシタンという独自の信仰形態を持つ人々だったというわけである。その信仰の中核にキリストやマリアの要素はなく、日本古来のタタリ観や先祖崇拝が重視された。 (2018年4月14日付の朝日新聞の読書評欄・評者は宮田珠己)



 建物は殉教地のほうを向いている
    豊臣秀吉はキリスト教の拡大に不安を感じ、天正15 (1587) 年に博多で伴天連 (宣教師) 追放令を出し、国外退去を求めた。慶長元 (1596) 年、スペイン船サン・フェリペ号が台風で土佐に漂着。船員が「スペインは世界の強国で、宣教師を派遣して現地人を改宗させ、その地を占領する」旨の話をしたため、激怒した秀吉は宣教師らを処刑するように命じた。

 こうして、フランシスコ会の宣教師やイエスズ会の修道士、信者ら24人が捕らえられ、京都や堺で引き回された後、長崎まで真冬の道を歩かされた。途中2人が自発的に加わり、慶長2 (1597) 年2月5日に長崎の西坂で十字架にかけられた。この大規模な殉教は西洋に伝わり、26人は「日本26聖人」となる。大浦天主堂はこの26聖人に捧げられたものだ。

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 創建時の和洋折衷から、増改築後はゴシック調の洋風建築になった
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 天主堂内部 (写真は借用)
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 天主堂平面図
大浦天主堂平面図


 博物館として活用されている旧羅典神学校 (国指定重文)
    明治8 (1875) 年、禁教が解除されると「長崎公教神学校」がt開設され、その校舎はド・ロ神父が設計した。当時はラテン語でミサをしていたため、12年間は授業もラテン語で行われ、通称「羅典神学校」とよばれた。 (長崎司教区「大浦天主堂物語」参照)

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  博物館として活用されている旧長崎大司教館 (県指定有形文化財)
   大浦天主堂の建設前に、神父の執務室としてこの司祭館が完成する。その後、老朽化したため大正4 (1915) 年に、外海地区の主任司祭であるド・ロ神父の設計により建て替えられた。敷地の高低差を巧みに利用したレンガ造りだ。完成の前年、ド・ロ神父は建築現場の足場から転落して死去、「教会建築の名手」と称えられた神父最後の建築となった。 (長崎司教区「大浦天主堂物語」参照)

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施設配置図


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