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2023/08/31

回想の寺269.崇福寺

長崎市・2018年9月20日

崇福寺 (国宝)
地図

   崇福寺は黄檗宗の寺院で、興福寺や福済寺とともに唐寺「長崎三福寺」の一つに数えられている。長崎の唐寺は、キリシタン弾圧が厳しかった寛永年間 (1624~1643年) 、在住の中国人が仏教徒であることを示すため出身地別に建立したといわれている。

 崇福寺は寛永6 (1629) 年、福州地方出身の在住中国人が中心となって、唐僧の超然 (ちょうねん) 禅師を招いて創建した寺院。福州出身者で建立されたことから「福州寺」とも呼ばれていた。長崎唐寺の特徴は媽祖堂をもつことで、海の神である媽祖を祀り航海の安全や先祖の供養を祈願した。 (崇福寺のパンフ参照)


三 門 (国指定重文)
 竜宮門を思わせる三門は嘉永2 (1849) 年に再建されたもので、日本人の棟梁が中国人の指導を受けて建築した。「聖壽山」の扁額は隠元禅師の筆とされる。三門は三解脱門の略で、仏教で悟りの境地に至るために通る三つの門を意味する。
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第一峰門 (国宝)
 唐門・赤門・海天門などともいい、正保元 (1644) 年の創建で、現在の門は中国の寧波で材を切り組み唐船で運んだものを、元禄9 (1696) 年に再建したものだ。軒下の複雑な斗栱と即非禅師の「第一峰」の扁額で有名である。
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 霧がたちこめる境内
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 護宝堂  (国指定重文)
  享保16 (1731) 年に再建され、精巧な柱礎がある。向かって左に韋駄天、右に関帝 (関羽)、中央に観音を祀っている。「護法蔵」の扁額は即非禅師の書。
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 鐘鼓楼  (国指定重文)
  上層に梵鐘を吊って太鼓も置いてあり鐘楼と鼓楼を兼ねている。創建は正保4 (1647) 年ごろで、享保13 (1728) 年に再建された。楼上に創建当時の檀越たちの名を連ねた梵鐘が吊るされている。
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 媽祖門  (まそもん・国指定重文)
  文政10 (1827) 年に再建され、媽祖堂の門と大雄宝殿と方丈を結ぶ渡り廊下を兼ねている。
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 媽祖堂 (県指定文化財)
  寛政6 (1794) 年に再建された。往時、唐船主たちが海上の安全を祈願し、海の神の媽祖を祀ったものである。現在も、華僑が旧暦の3月23日に盛大な祭りをする。
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大雄宝殿  (国宝)
 崇福寺の本堂で、中国で切り組み唐船で運び正保3 (1646) に建立された。当初は単層、平屋建てだったが、天和元 (1681) 年のころに日本人棟梁の手で上層部分が加えられ2階建てに重層化された。下層は黄檗様式で上層は和様であるが、一見なんの違和感もなく調和している。
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安置されている仏像 (県指定文化財)
 本尊は釈迦如来、脇侍は迦葉 (かしょう) と阿難 (あなん) で、承応2 (1653) 年につくられたものだ。
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 左 側   十八羅漢は黄檗系彫像の代表作 (ふつう十六羅漢だが新たに2体加わっている)
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 右 側   十八羅漢は黄檗系彫像の代表作  (ふつう十六羅漢だが新たに2体加わっている)
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 境内図
崇福寺境内図


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2023/08/30

回想の塔268.出津教会堂 ~ 浦上天主堂

長崎市・2018年9月20日

出津 (しつ) 教会堂 (世界遺産)
地図

   出津 (しつ) 集落における潜伏キリシタン関連遺産は、禁教時代の面影をとどめる小田平集落、そして解禁後に建設された出津教会堂出津救助院の3つの要素から成っている。教会堂の建物だけでなく集落そのものが世界遺産の構成資産だ。明治の初め外海地区に赴任したド・ロ神父は、明治15 (1882) 年に私財を投じて教会堂を建設した。強風を考慮した低い外観が特徴である。

 集落の潜伏キリシタンは解禁後に段階的にカトリックへ復帰していくが、集落の中心部に教会堂が建ったことで、彼らの「潜伏」は終焉を迎える。信徒の増加にともない、教会堂は明治24 (1891) 年と明治42 (1909) 年の2回増築され、建物の正面と背面の両方に鐘楼があるたいへん珍しい姿になった。 (長崎県観光課のパンフ等参照)


 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する12の資産
12の構成資産


 外海 (そとめ) 民俗博物館
    外海 (そとめ) 地区の古代から現代までの歴史や民俗資料を展示。2階には禁教期の信仰具やマリア観音など、潜伏キリシタンの関連資料を所蔵・展示している。
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 旧出津救助院 (国指定重文)
    明治16 (1883) 年に、ド・ロ神父が女性の自立支援のための作業場として建設。織物や縫物、素麺づくりなどの食品加工を行った施設だ。木造2階建てで1階は作業場、2階は修道女の生活の場として使用されていた。
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 ド・ロ神父記念館 (国指定重文)
    明治18 (1885) 年 にド・ロ神父の設計施行で 、女性の就業を支援するイワシ網の製造工場として建設された。現在はド・ロ神父記念館としてゆかりの品々が展示されている。
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 案内板
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 かつてド・ロ神父が歩いたという歴史の道
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 坂の上から見る出津教会堂
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 正面の鐘楼
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 正面と背面の2ヵ所に鐘楼がある
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 出津教会堂周辺マップ
出津教会堂マップ



長崎市・2012年5月23日

アンジェラスの鐘 浦上天主堂
地図

 長崎市内での宿は、ちょうど浦上天主堂の近くにあったので、浦上天主堂 ~ 平和公園 ~ 爆心地と朝の散歩をしてきた。
 
 明治維新の後、キリシタン弾圧の耐え信教の自由を得た浦上のキリスト教信者たちが、30年の歳月をかけて築いた東洋一のロマネスク様式の大聖堂である。昭和20 (1945) 年に原爆で崩壊した。再建された (昭和34年) 天主堂からは、原爆の爆風に耐えたアンジェラスの鐘が1日3回響きわたる。(長崎市発行のパンフ参照)


 赤レンガの浦上天主堂
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 爆風に耐えたアンジェラスの鐘が響き渡る
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 案内板
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2023/08/29

回想の塔267.ザビエル記念教会

長崎県平戸市・2012年5月21日

平戸ザビエル記念教会
地図

   平戸ザビエル記念教会は昭和6(1931) 年の創建。フランシスコ・ザビエルのが日本で最初に布教した場所に建てられた教会で、昭和26 (1951) 年に完成した。ゴシック様式で、ペパーミントの外壁が特徴、外観が美しい教会だ。内部には、ザビエルの生涯や平戸のキリシタン史を紹介する展示室や、ザビエルの像や遺品を祀る聖堂がある。


 天を衝く尖塔

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 ファサード
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 外 観 (側面) 
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 外 観 (背面)
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 ザビエルの像
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 身 廊
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 祭 壇
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 ステンドグラス
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       浄土真宗の光明寺と教会の尖塔が重なる景観
                    東洋と西洋の文化が織り成す平戸特有の風景
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2023/08/28

回想の寺266.万松院

長崎県対馬市・2012年5月19日

対馬藩主菩提寺 万松院
地図

 万松院は天台宗の寺院で対馬藩主の菩提寺。元和元 (1615) 年に、宗家20代義成が19代義智を弔って創建した松音寺を、元和8年その法号にちなんで万松院と改めた。元禄 ~ 享保の大火で伽藍は山門を残し焼失、現在の建物は明治期のものである。

 墓地は、山門のわきから百雁木とよばれる132段の石段を上ったところにあった。樹齢数百年の鬱蒼とした杉林が茂り、上段には義智以来の14人の藩主とその正室、中段には朝鮮外交で有名な貞国ほか、下段には藩主の側室などが眠っている。対馬藩は10万石の格式だったが、壮大な墓地は大藩なみといわれ、国の史跡に指定されている。
 (長崎県のHP・対馬観光協会のパンフ参照)

※宋 義智 (そう よしとし) 

 鎌倉時代から対馬を統治していた宗家の第19代藩主。小西行長の娘マリアと結婚し、自らもダリオという洗礼名をもつキリシタン大名だった。秀吉の命による朝鮮出兵、関ヶ原の敗戦にともなう小西行長の処刑 ~ キリスト教の破棄 ~ マリアとの離婚、朝鮮との和平交渉など苦悩に満ちた生涯を送った。朝鮮との国交回復の功を徳川家康に認められ、対馬藩初代藩主となる。
 

 案内板 
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 山 門
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 本 堂
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 諫鼓 (かんこ)  領主に対して諫言しようとする領民が打ち鳴らすように設けた鼓 
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    百雁木 
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 自然石で造られた132段の石段
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 推定樹齢1200年の大杉 (県指定天然記念物)
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 中御霊屋
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 上御霊屋
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 境内図
万松院マップ


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2023/08/27

回想の館265.旧唐津銀行

佐賀県唐津市・2012年5月20日

旧唐津銀行
地図

 旧唐津銀行の誕生を語るうえで欠かせないキーパーソンは、発注者の大島小太郎、設計監修の辰野金吾、設計者の田中実。大島は唐津藩校で辰野とともに高橋是清 (後に蔵相 ~ 首相) に学び、疲弊していた唐津経済を立て直し唐津銀行を創立、初代頭取に就きました。
 
 明治45 (1912) 年竣工の旧唐津銀行。東京駅という国家プロジェクトに奔走する辰野から設計を託された愛弟子の田中は、師匠の故郷に対する思いをくみ取り、「辰野式」とでもいうべき設計スタイルを採用しています。
 
 イギリス派の建築家の中心だった辰野は、晩年、赤レンガスタイルの建築をこよなく愛し、多数の赤レンガ建築を世に送り出しました。イギリスのクイーンアン様式に塔やドームを王冠のようにいただくのが辰野流で、同時代の人はこれを「辰野式」と呼んだのです。
 
 旧唐津銀行は赤レンガと白御影石によるコントラスト、王冠のように強調した尖塔やドームなど典型的な「辰野式」デザイン。また、3連の大アーチ窓、豪華な貴賓室や大理石の暖炉など、外観と内観のディテールにはモダンデザインが散りばめられています。(唐津市のパンフ参照)
 

外観 (正面)
 天然スレート葺の屋根や銅板製のドーマー窓、赤レンガ調タイルによるアーチ窓と御影石の飾受突石などが「辰野式」
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 外観 (側面)
  建物のアクセントになる銅板葺の尖塔は、記念性を演出する「辰野式」の象徴。
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 復原された木製のカウンター (1階内観) 
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 大理石のマントルピース
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 木の階段
  艶やかな木 ~ 凝った手摺 ~ 鮮やかな赤絨毯で彩られた階段は、2階の貴賓室に向かう人々の足取りを軽やかにし、気持ちを弾ませたことだろう。
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 2階は展示スペース 
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 立入禁止?
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 のぞいてみると貴賓室だった
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 アーチ窓
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 吹き抜け   階下は待合室 
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設計図
旧唐津銀行設計図



 辰野金吾
 
 1. 東大を主席で卒業
  入学時に下位で入学した辰野は、猛勉強し東京帝国大学を主席で卒業ロンドン留学の特権を得て建築学を究める。
 
 2. 建築科教授に就任
  留学後、東大建築科の教授に就任し建築教育の基礎をつくり、辰野DNAを継いだ卒業生を多数送り出した。
 
 3. 建築家という職業を確立
  明治19年に日本人初の建築設計事務所を開設し、生涯で200余の建築設計に携わった。
 
 4. 建築史に残るプロジェクトの牽引
  日銀本店東京駅など国家的権威を示す建築物を次々と手掛け、建築家としての業績を残した。
 
 5. 建築学会設立、会長就任
  明治20年、設計者・建築業者・学者を繋ぐ職能集団である日本建築学会を創設し、永年会長として活躍した。     (唐津市のパンフ参照)
 
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2023/08/26

回想の館264.曳山展示場 ~ 旧高取邸

佐賀県唐津市・2012年5月20日

唐津くんち 曳山展示場
地図

 唐津の城下町は城が築かれてから始まるが、町人衆の産土神である唐津神社の祭りは古くから行われていた。文政2(1819) 年に刀町が赤獅子を奉納、以来明治9年までの57年間に15台の曳山 (うち紺屋町の黒獅子は明治中期に消滅) が次々と奉納された。唐津神祭は唐津神社の秋季例大祭で、一般に「唐津くんち」と呼ばれている。「供日」と書いて「くんち」と読まれることから、収穫感謝の祭りとされ、毎年11月3~4日に行われてきた。
 
 宵曳山 (よいやま・2日の夜) ... 14台の曳山が飾り提灯に彩られ、華麗な巡行が展開される。
 
 3日 (文化の日) ... 唐津大明神が御神幸される日で、曳山は神輿にお供する。意匠を凝らしたいなせな法被姿の曳子たちが、各町ごとに笛や太鼓の曳山囃子を連れて、あるときは走り、あるときは緩く市中を曳き回る。 なかでも西の浜での曳き込みは圧巻で、重さ2~4トンもある曳山が轍も深く競い合い、必死に砂地に挑む姿は数万の観衆を魅了する。
 
 4日 ... 御神幸はなく、町々の順路をゆっくりと曳き回る。 (曳山展示場のパンフ参照)


 1番曳山 赤獅子 (左・刀町)
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 3番曳山 亀と浦島太郎 (材木町)
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 4番曳山 源義経の兜 (左・呉服町)
 5番曳山 鯛 (中央・魚屋町)
 6番曳山 鳳凰丸 (右・大石町)
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 8番曳山 金獅子 (本町) 
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   9番曳山 武田信玄の兜 (左・木綿町)
  10番曳山 上杉家謙信の兜 (右・平野町)
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 12番曳山 珠取獅子 (京町)
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 13番曳山  (水主町)
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 14番曳山 七宝丸 (江川町)
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佐賀県唐津市・2012年5月20日

旧高取邸 (国指定重文)
 
  旧高取邸は、杵島炭鉱などの炭鉱主として知られる高取伊好 (これよし・1850~1927) の邸宅。唐津城本丸の西南、西の浜と呼ばれる海岸沿いに、2300坪の広大な敷地に大きく2棟の建物がある。近代和風建築の調査でその重要性が確認され、平成10年に国の重要文化財に指定された。
 
   和風を基調としながらアールヌーボー調の洋間を持ち、大広間には能舞台を設けるなど独特のつくりになっている。また、各所にしつらえた杉戸絵欄間などの意匠も見逃せない。(残念
ながら撮影禁止) 花鳥風月や中国の故事などを題材とした杉戸絵は、幽玄の世界へと誘い、孔雀や千鳥、ウサギなどを曲線で描いた欄間は、アールヌーボー調に美しく彩られていた。 


 本玄関と洋間
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 大玄関
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 大広間棟 
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 大広間棟
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 居間棟 
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   庭 
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 平面図
旧高取邸平面図



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2023/08/25

回想の園263.吉野ヶ里歴史公園3

佐賀県吉野ヶ里町・2018年9月18日

吉野ケ里歴史公園 3北郭内

 北内郭は吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な聖地だったと考えられている。田植えや稲刈りなど農作業の日程を決めたり、季節ごとの祭りや大きな市を開催する日取りを決定するところだった。

 ここで、吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要事項の話し合いと、祖先への祀りや儀礼が行われていた。当時、重要事項が話し合いで決まらないときには、最高司祭者祖先や神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人=シャーマン) が祖先の声を聞き、それによって決定したと考えられている。(吉野ケ里歴史公園のHP参照


 環濠と板塀
    北内郭が神聖で重要な場所との想定から、中を覗くことができないよう隙間のない板壁で復元されている。
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 織物の倉
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 斎  堂
  東祭殿と主祭殿の間にある高床の建物。主祭殿での祭りの前に身を清めたり、祭りの道具を保管する場所として使われていた。
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主祭殿
 吉野ヶ里のクニ全体の重要事項を決める話し合いをしたり、祖先の霊を祀り祈りを捧げた北内郭の中心的な建物である。柱の太さや間隔から3層2層建ての高床式と考えられ、古代中国の建物に関する記録などから中層と上層は異なる機能を持っていたと想像できる。
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 屋 根
    主祭殿は吉野ヶ里環壕集落内で最大の建築物であり、その主軸が北墳丘墓と南墳丘墓を結ぶ南北軸に一致することから、北内郭での祭祀の中心となる建物だと考えられている。
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 吉野ヶ里のクニ全体の重要な話し合いが行われており、吉野ヶ里の王や大人・リーダーたち、さらには周辺のムラの長が集まっている。
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 吉野ヶ里の大人・リーダー
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 周辺のムラの長
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 吉野ヶ里の王
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 上層の案内板
  上層部分はもっとも祭祀性が高いと考えられるので、最高祭祀権者が祖霊に祈りをささげる場として復元された。
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 最高司祭者の神がかりの様子 
  祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っている。この結果は従者によって中層で会議を行っている王や大人・リーダーたちに伝えられる。
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 北内郭の想像図
北内郭想定図


 歴史公園のマップ
吉野ヶ里マップ


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2023/08/24

回想の園262.吉野ヶ里歴史公園2

佐賀県吉野ヶ里町・2018年9月18日

吉野ケ里歴史公園 2南郭内
地図

 南内郭は、この吉野ヶ里の集落をはじめ周りのムラを治める王や大人 (たいじん・リーダー の居住区と考えられている。その理由は、一つに周囲を環壕と柵で囲まれ、敵を監視すると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的な物見櫓の跡が見つかっていること。二つに人々が住む竪穴住居が中心であること。そして三つに、当時としては一部の有力者しか所有できなかった極めて貴重な鉄製品が数多く見つかっていることなどによる。

 弥生時代の階層や身分・職能については、「魏志倭人伝」の記述などにより、クニの支配者として行政的な運営を担っていたと考えられる大人たいじん)、一般的な階層である下戸(げこ、最も下位の階層である生口(せいこう)分類された。

 大人層は一般的な農業労働には従事せず、その監督や行政的活動を主たる仕事としていた。こうした大人層が暮らす南内郭では、広場に男性たちが集まって集会を行い、下戸層 (一般的な階層) の女たちが料理など労働奉仕を行う姿が目に浮かんでくる。(吉野ケ里歴史公園のHP参照)


 南内郭遠景
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 櫓 門   もう一方の大きな櫓門では、上に兵士が立ち下を通る人々を監視していたという。
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  物見櫓  南内郭には4棟の物見櫓があり、兵士が内郭への侵入者を厳重に監視していた。
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 物見櫓から見下ろす北内郭
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 物見櫓から見下ろす南内郭
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 弥生時代の暮らしぶりを伝える展示品
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 様々な材料で衣類をつくる
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 原始的な織物の技術
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 煮炊屋
    吉野ヶ里遺跡では、竪穴式住居内の炉から煮炊きをした痕跡が発見されていない。ここが共同で煮炊きをする建物だったと考えられている。
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 王の家    柵によって囲まれた特別な空間にある。
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 内 部   床面より一段高い「ベッド状遺構」が存在する住居跡が多い。
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 王の妻の家
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 内 部   長方形で中央の炉を挟み主柱が左右に1本ずつ、計2本のものが一般的だ。
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 集会の館 
    吹き抜けの大きな建物で、王や大人 (たいじん・リーダー層) がここに集まり様々な話し合いが行われた。
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 南内郭想像図
南内郭想定図


 歴史公園のマップ
吉野ヶ里マップ


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2023/08/23

回想の園261.吉野ヶ里歴史公園1

佐賀県吉野ヶ里町・2018年9月18日

吉野ケ里歴史公園 1展示室
地図

 紀元前5世紀から紀元後3世紀までの弥生時代は、日本で稲作が始まり定住型の農耕文化が成立した時代である。そのなかでも吉野ケ里遺跡は、佐賀県神崎郡の旧神崎町・旧三田川町・旧東背振 (せふり) 村の3つの町村にまたがるわが国最大の遺跡だ。

 弥生時代における「クニの中心的な集落の全貌や、弥生時代700年間の変遷を知ることができ、古代史を解明するうえで極めて重要な遺跡や情報が集中している。これらは「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国を彷彿とさせるもので、国の特別史跡にも指定されている。(吉野ケ里歴史公園のHP参照)


 環濠集落入口
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 濠を掘りをめぐらした環濠集落
    農耕社会が成立すると、富を持つ者と持たざる者が生まれ、奪う者も現れる。日本でも農耕社会が進展すると、蓄積された余剰生産物や土地をめぐって戦いが始まった。環濠集落は周囲に深い濠を掘り土塁を築き、柵をめぐらして外敵に備えた集落である。
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 逆茂木 (さかもぎ) ・乱杭    とがった木でバリケードをつくり外敵に備えた
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 このころはイノシシなどの獣がたくさんいた
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 「弥生人」が着ていた服 (展示室) 
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 遺跡から出土した大型の土器
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 遺跡から出土した土器 
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 1998年、九州で初めて出土した銅鐸 (レプリカ)
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邪馬台国はどこにあるのか?  九州説と畿内説が拮抗している 

  これまで邪馬台国の推定地は100ヶ所以上に上り、歴史学会を2分する論争が繰り広げられてきた。なぜこれほどまでに注目されているのか、それは日本における古代国家成立を考える重要なポイントとなるからである。

   畿内説の主張
1.卑弥呼が魏より授かったと考えられる三角縁神獣鏡は近畿から多く出土する。
2.「魏志」倭人伝に卑弥呼が死んで150mの墓をつくったとあるが、これは奈良県の箸墓古墳
 の後円部に該当する。当時の九州にはこうした大規模な墓はない。
3.「魏志」倭人伝によれば邪馬台国は不弥国の南にあると記されているが、これは東の誤り
 で、距離を考えれば大和が妥当である。

  九州説の主張
1.中国製の青銅器を数多く副葬した王墓や、大規模な吉野ヶ里遺跡が発見されたことから、
 福岡 ~ 佐賀県を中心とした北九州が候補地となる。
2.「魏志」倭人伝に描かれた「望楼 (物見櫓)」、「城柵」、「宮室」、「邸閣」などに相
 当する遺構がセットで発見されているのは、現在までのところ吉野ヶ里遺跡だけである。
3.「魏志」倭人伝の伊都国から邪馬台国までは連続した行程ではなく、全て伊都国からの距
 離を記した放射式の行程である。これなら倭人伝に記された距離が一致する。

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 歴史公園のマップ
吉野ヶ里マップ


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2023/08/22

回想の館260.御花

福岡県柳川市・2012年5月25日

柳川藩主立花邸御花」
地図

 秀吉の九州平定に際し、 豊後大友氏の先陣として活躍した立花宗茂は、その功により筑後13万石の領主となり柳川に城を構える。その後、関ヶ原の戦いで西軍に加勢した宗茂は、柳川を追われることになった。
 
 代わって入封した田中吉政によって、現在の柳川城下町の基礎が造られた。しかし20年後の元和6(1620) 年、家康の信頼を得た宗茂は、世継ぎが途絶えた田中氏に代わり、再び柳川藩主に返り咲く。元文3(1738) 年、柳川5代藩主・立花貞俶 (さだよし) は、「御花畠」といわれたこの地に別邸を設ける。やがてこの屋敷は、柳川の人々から「御花」と呼ばれるようになったという。
 
 明治時代は立花伯爵家の邸宅となった。14代当主の寛治 (もとはる) は明治42~43年、迎賓館としての西洋館とそれにつづく和風の大広間という、当時流行した形式の邸宅を建築した。平成23年、御花の全敷地およそ7千坪が、「立花氏庭園」として改めて国の名勝に指定された。(「御花」のパンフ参照) 


 正 門
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 つつじがきれい
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 西洋館 (正面)
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 西洋館 (背面) 
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  西洋館1階
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    階 段
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 西洋館2階
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 西洋館と大広間棟の中継
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 大広間棟の廊下
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 庭から見る大広間棟
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 国指定名勝「立花氏庭園
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 敷地はおよそ7千坪
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 配置図
御花マップ


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