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2023/09/20

回想の館289.ひめゆりの塔資料館 ~ 沖縄県平和祈念資料館

沖縄県糸満市・2012年9月8日

ひめゆりの塔資料館
地図 

 沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒200人余による「ひめゆり部隊」が、看護活動を行っていた最後の場所、旧陸軍第3外科壕跡が「ひめゆりの塔」だ。
 
 ここに部隊が移動した1945年6月には、医薬品や食糧も底をついていた。6月18日、軍より突如解散命令が下される。この後、壕からり脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や学徒の多くが死亡し、生還者はごくわずかたった。壕は傾斜がきつく、この中で雨や泥、砲弾にさらされながら生活していたとは、平和な時代に生きる私たちの想像を絶するものがある。
 
 生き残った学徒の多くは、さらに海岸に追い込まれ自決した。「ひめゆり部隊」の犠牲者194人のうち、「解散」後の死者が128人という数字は、軍の無責任さが多くの犠牲者を生んだことを如実に物語っている。
 
 塔の横に「ひめゆり平和祈念資料館」があり、多くの人が死んでいった様子を克明に綴った学徒の手記などが展示されている。また、ひめゆり部隊で生き残った女性から、館内でじかにお話を聞くことができた。説得力のある貴重な証言で、落涙を抑えるのに苦慮した。
 
 「女性も勇敢に戦った」とする論調ではなく、日本政府・軍がひめゆり学徒を「捨て石」にしたという隠しようもない事実や、戦争の悲惨さがリアルに表現されている。 


 ひめゆりの塔  塔」と名付けられているが、実物は高さ数10cmほど
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 旧陸軍第3外科壕跡   「ひめゆり部隊」が看護活動を行っていた最後の場所
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「ひめゆりの塔の記」 
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 ひめゆり学徒の像
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 ひめゆり平和祈念資料館
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 元ひめゆり学徒の証言
2014.11.12付の記事


 元ひめゆり学徒の証言
2015.2.23付の記事



沖縄県平和祈念資料館
地図

 1945年3月末、史上まれにみる激烈な戦火がこの島々に襲ってきました。90日におよぶ鉄の暴風は、島々の山容を変え、文化遺産のほとんどを破壊し、20数万の尊い人命を奪い去りました。沖縄戦は日本に於ける唯一の県民を総動員した地上戦であり、アジア・太平洋戦争で最大規模の戦闘でした。
 
 沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされる者もありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。
 
 この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が、米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。「沖縄のこころ」とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求め、人間性の発露である文化をこよなく愛する心です。
 
 私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。 (設立理念・1975年・沖縄県) 


 平和祈念堂 
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 平和の丘 
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資 料 館

 第1展示室 「沖縄戦への道」
  明治政府は、琉球王府に対し武力を背景に『琉球処分』を断行。さらに、沖縄県は皇民化政策によって急速に日本化を進めた。一方、近代化を急ぐ日本は、富国強兵策により軍備を拡張し、近隣諸国への進出を企てた。満州事変 ~ 日中戦争 ~ アジア・太平洋戦争へと拡大し、沖縄は15年戦争の最後の決戦場となった。
 
 第2展示室 「鉄の暴風」
  沖縄戦において、日米両軍は総力をあげて死闘を繰り広げた。米軍は空襲や艦砲射撃を無差別に加え、おびただしい数の砲弾を撃ち込んだ。この『鉄の暴風』はおよそ3ケ月に及び、沖縄の風景を一変させ、軍民20数万人の死者を出す凄まじさであった。
 
 第3展示室 「地獄の戦場」
  日本軍は首里城決戦を避け、南部に撤退し持久作戦をとった。その後、米軍の強力な掃討作戦により追いつめられ、軍民入り乱れた悲惨な戦場と化した。壕 (ガマ) の中では、日本兵による住民虐殺強制による集団死があり、外では米軍による爆撃や火炎放射器による殺戮があって、まさに阿鼻叫喚の地獄絵の世界だった。
 
 第4展示室 「証言」 
  沖縄戦の実相を語るとき、物的資料になるものは非常に少ない。無念の思いで死んでいった人たちを代弁できるのは、戦場で体験した住民の証言しかない。忌まわしい記憶に心を閉ざした人々の重い口から、後世に伝えようと語り継がれる証言の数々は、歴史の真実そのものである。 (沖縄県平和記念資料館のパンフ参照)
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2023/09/19

回想の館288.美ら海水族館

沖縄県本部町・2012年9月6日

ジンベエザメが泳ぐ 美 (ちゅ) ら海水族館
地図

 2002年に開館した沖縄
 (ちゅ) ら海水族館は、77の水槽で約740種2万1000点の生き物を展示し、世界有数の規模を誇っている。その前身は、1975年に開催された国際海洋博覧会の海洋生物園を引き継いだ水族館だ。当時も今も、沖縄の海に暮らす生き物たちの生き生きとした姿を見せてくれる。
 
 沖縄美ら海水族館は、ジンベエザメの長期飼育記録や複数飼育、さらに世界で初めてナンヨウマンタの繁殖などを次々と成功させた。そのカギとなるのが、沖合い300mから引いてきた新鮮な海水を館内の水槽に循環させるシステムだ。さらに自然光を取り入れることで、できるだけ自然に近い状態を保っている。 


 水族館入口 
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 イノー (サンゴに囲まれた穏やかな海) の生き物
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 鮮やかな色の熱帯魚
  浅瀬から薄暗い洞窟まで水槽がつながり、そのなかを魚たちが自由に泳いでいる。 
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 像のような鼻の魚 
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 エビ?
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 サンゴの海
    自然光を直接取り込み新鮮な海水を供給することで、生きたサンゴの大規模飼育に世界で初めて成功した。 
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 上目づかいの魚
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 タツノオトシゴ 
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 「黒潮の海」   長さ35m、深さ10m、幅27mの水槽に7500立方㍍の海水をたたえる巨大水槽。
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 8.7m 世界最大の魚 ジンベエザメ   
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 ジンベエザメとナンヨウマンタ (繁殖に成功したのは世界初)
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2023/09/14

回想の館383.特攻平和会館 ~ 西郷南洲蟄居跡

鹿児島県南九州市知覧町・2004年5月

特攻平和会館
地図

 2004年5月、薩摩半島の開門岳に登ったときに知覧を訪ねた。ここは、太平洋戦争末期の沖縄決戦において、爆弾搭載の飛行機もろとも突撃する特攻隊の出撃基地があったところだ。現在は「特攻平和会館」として、特攻隊員の遺品や関係資料が展示されている。

 とりわけ、一機一艦の突撃を敢行した若き特攻隊員 
(少年たち) の遺書は涙を誘う。ほとんど「お母さんさようなら」と書き残して死んでいったという。展示室で、熟年の女性が目頭をおさえながら熱心に見入っていた。我が子の姿を重ねあわせているのかもしれない。


 会館の遠景
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 一式戦闘機「隼」  爆弾と片道の燃料を積んで敵艦に体当たりした
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 特攻隊士の像
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 特攻隊の歌碑
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 「特攻隊の母」の像  基地の近くで食堂を営んでいた鳥濱トメさんは、よく少年たちの面倒を見たことから「母」のように慕われたという。
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鹿児島県龍郷町・2016年3月23日

奄美大島 西郷南洲蟄居跡

  安政5(1858) 年、西郷隆盛は鹿児島錦江湾に僧月照と身を投じたが、蘇生する。薩摩藩は、安政の大獄で捕縛命令が出ていた西郷をかくまうため、幕府に対しては死亡したと届け出、奄美大島に蟄居を命じた。西郷は菊池源吾と名を変え奄美での暮らしが始まる。

 西郷はしだいに島の人々の信頼を集め、龍郷の有力者である龍家の娘・愛加那を島妻とする。西郷33歳、愛加那23歳。やがて菊次郎と菊子という2人の子どもをもうけた。西郷は島の子供たちに勉強を教えたり、相撲をとったりして過ごす。愛加那にとってはこの3年間が最も幸せな時期だった。

 時勢が西郷の力を求め、元治元 (1864) 年に再び呼び戻される。鹿児島に戻る途中で奄美大島に立ち寄ったときが、愛加那との最後の別れとなった。薩摩藩の島妻制度に従い、2人の子どもたちは西郷本家引き取られ、愛加那は1人残されてしまう。愛加那はただ一人淋しくこの家で暮らし、明治35 (1902) 年66歳で亡くなった。 (夢島発行「奄美夢島ガイド」参照)  


 蟄居跡
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 愛加那と暮らした家
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  「西郷どん」
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  愛加那の碑
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 解 説
西郷南洲蟄居跡


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2023/09/06

回想の館275.山鹿灯籠民芸館 ~ 八千代座

熊本県山鹿市・2012年5月27日

山鹿灯籠民芸館
地図

 少量ののりと和紙だけで作られる山鹿灯籠の歴史は古く、その繊細さと美しさから和紙工芸の極致と称される。室町時代の金灯籠に始まり、大宮神社に奉納するために受け継がれた。長い歴史の中で神殿造りや座敷造り、城造りなど多様化、国指定の伝統工芸品となった。
 
 山鹿灯籠民芸館は、大正14(1925)年に建てられた銀行の内部を改造し、昭和62年4月にオープンした。大正ロマンの香りが漂う洒落た洋館、その館内には各種の山鹿灯籠が展示され、灯籠師たちの多彩な技を見ることができる。(山鹿市のHP参照)


   正面入口
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 旧安田銀行山鹿支店の建物だった
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 金灯籠を製作中
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 完成した作品 (金灯籠
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 灯籠は八女の紙との合作 
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 こんな作品も ... 
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 数百個の金灯籠に明かりが灯る
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 千人灯籠まつり   金灯籠を載せた女性 
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熊本県山鹿市・2012年5月27日

八千代座 (国指定重文)

 
八千代座は、明治43年に旦那衆と呼ばれる山鹿の実業家たちの手によってつくられた芝居小屋。花道や升席など江戸時代の古典的様式に、ドイツ製のレールを使った廻り舞台など充実した機能があった。
当時の山鹿は交通の要衝として隆盛を極め、その豊かさの象徴が八千代座だ。翌年「こけら落とし」が行われ、大正から昭和にかけて各地から芸人たちが来演、多くの観客を楽しませた。

 戦後はテレビの普及などにより、八千代座は廃屋同然となってしまう。しかし、往時を懐かしむ人たちが中心となって30年を超える復興運動を展開。その努力が実り、昭和63年に国の重要文化財に指定された。そして坂東玉三郎の公演、八千代座に寄せる山鹿の人々の情熱は、「華やかなりしあのころ」を蘇らせたのである。
(山鹿市のHP参照)


全 景
 八千代座の屋根には約3万3千枚の瓦が乗っているが、玄関正面の部分には古い瓦が1500枚使用されている。
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   菰 樽
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太鼓櫓 (たいこやぐら)
 屋根裏を通り、おとな一人がやっと通れる穴を抜けると水色の幕に出ます。昔は、ここから町中に櫓太鼓が響き、芝居のあることを知らせていました。
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 シャンディリアと天井広告画
  平成の大修理 (H8~13年)で復活したのが真鍮製の大きなシャンディリア。第二次大戦の金属供出で失われたが、およそ60年ぶりに優美な姿を再現した。また、八千代座の特徴のひとつが天井広告画で、現存する他の芝居小屋には見られないものだ。
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 2階桟敷席 
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 舞  台    舞台中央には廻り舞台と呼ばれる舞台装置がある。
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 升 席   本花道と仮花道に囲まれ木の棒で仕切られた客席
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 廻り舞台を支えるレールと車輪はドイツのクルップ社製 
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 楽 屋
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2023/09/05

回想の館274.旧グラバー住宅

長崎市・2018年9月20日

旧グラバー住宅 (世界遺産)
地図

 旧グラバー住宅は、文久3 (1863) 年に建てられた現存するわが国最古の木造洋風建築である。長崎市南山手の見晴らしのいい丘の上に建つ。建設当初はL字型の平屋で、周囲がベランダで囲まれた建物だった。設計者は不明だが、施行者は日本人であることが判明している。その後増改築を繰り返し、明治期になると、独立していた台所のある付属屋と主屋が廊下で結ばれ、現在の形に落ち着いた。

 長崎市の学芸員によれば、この住宅は日本人から見ればまさに洋風の建物だが、ここを訪れた欧米人からしばしば「和風の建物だね」という感想を聞くという。たしかに屋根は瓦屋根、外壁は竹木舞の下地に漆喰塗り、和小屋など、外観は和風の要素が強くみられる。

 しかし、住宅を囲むベランダは東アジアにに多く見られるコロニアル・スタイル。ベランダの屋根を支える円柱にはイギリス式の格子の装飾が施されている。室内は、部屋を明るくするために大きな鏡が設置され、典型的な「擬洋風建築」となっている。
 (グラバー園のパンフ参照)


 世界遺産に登録
      西洋の先進技術を伝え、日本の近代化に大きく貢献したグラバーの住宅であることが評価され、世界遺産の構成資産として登録された。
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 旧グラバー住宅の外観
  屋根は和風の瓦屋根だが、建物を囲むベランダがあるコロニアル・スタイル
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 旧グラバー住宅の変遷    増改築を繰り返し現在の形となった
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トーマス・ブレーク・グラバー
 スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーは安政6 (1859) 年、彼が21歳のとき、長崎開港と同時に来日し、グラバー商会を設立した。グラバーは貿易業を営む傍ら、近代化をめざす日本に様々な面で貢献している。例えば、さらなる知識の構築を志す若者たち、長州藩の伊藤博文ら5名や鹿児島藩の五大友厚ら19名に英国留学を支援するなど、多大な援助を惜しまなかった。

 帰国した五大は、グラバーとともに小菅修船場 (世界遺産) を建築している。また、グラバーは佐賀藩とともに高島炭鉱 (世界遺産) を開設。その後、高島炭鉱は三菱の創業者である岩崎弥太郎に買収され、グラバーは三菱の一員として所長に就く。とび色の瞳と赤い顔のため、彼が経営していた炭鉱の鉱夫から「赤鬼」とあだ名されていたという。明治以降は、純経済人として科学技術の導入や日本の産業革命の推進に大きな貢献をした。  (グラバー園のパンフ参照)

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 応接室
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 食 堂
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 150年前の西洋料理 
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 テーブルに並べてみると
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 温 室
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 庭 園
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 長崎港
  港内を行き交う船の音が間近に聞こえ、市街地や稲佐山の景観が広がる絶景のビュースポットだ。
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